モレキュラーシアター演劇公演 『マウスト mouthed』
(2009年11月21日―23日 御茶ノ水 フリースペースCANVAS)の感想を。
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長い一瞬に耐える身体、光の鑿で彫りつけられた表情、暗闇、暗闇が反転し光の射し込む穴、カメラ・オブスキュラの片隅にいたような気がします。
観たものが逆さだとしたら、穴から逆さに落下し、大きくあけた口腔から内側へもれる光の中で観ていたのかもしれません。
時間が経つほどに、舞台の残像が、細かな粒子で額の裏に焼きつけられていくようです。
闇が効果的に使われ、暗転と同時に、わたしたちもまた別の時空に落ちてしまったのでしょうか。
黒い糸をひいて降りてきたマイクは口を噤んだわたしたちにささやき続け、同時に耳をそばだてる気配が充ち、口元を近づけ耳打ちしていく妄想がよぎります。
異様な気配の中で、推敲するように読み上げる落ち着いた声が重なり、分裂したタキグチの有り様を感じさせてくれました。
タキグチでありながら、逆の方から、つまり足下から、過去の言葉の方から照らされ現れた、全く別の形相のタキグチ。
生き延びるために分裂し生まれてしまった別の自己。
自らを丸呑みし、それをまた呑みこみ、入れ子となったタキグチ。
明るい口腔は踏絵のようにも見え、真実を語る素振りのタキグチが立っていたのは、まさにそのような場所だったのかもしれません。
瀧口修造と同じ時代や苦難を通り抜けずに、この時代から、その立っている場所に我が身を置き換えてみることは、意味合いは違うとしても踏絵を踏むような緊張があります。
想像だけで考え、証明できないことを口にするのは勇気が要りますが、つまり自分は何を貫きたいのかと考えれば、複雑な問題は整理され、葛藤で舞いたつ澱は澄み、真の自己の姿も見えてくるように思います。
完成した舞台は、澄んでいました。
おそろしいほどに簡潔ですみずみまで張りつめた美しい舞台でした。
タキグチでありながら、逆の方から、つまり足下から、過去の言葉の方から照らされ現れた、全く別の形相のタキグチ。
生き延びるために分裂し生まれてしまった別の自己。
自らを丸呑みし、それをまた呑みこみ、入れ子となったタキグチ。
明るい口腔は踏絵のようにも見え、真実を語る素振りのタキグチが立っていたのは、まさにそのような場所だったのかもしれません。
瀧口修造と同じ時代や苦難を通り抜けずに、この時代から、その立っている場所に我が身を置き換えてみることは、意味合いは違うとしても踏絵を踏むような緊張があります。
想像だけで考え、証明できないことを口にするのは勇気が要りますが、つまり自分は何を貫きたいのかと考えれば、複雑な問題は整理され、葛藤で舞いたつ澱は澄み、真の自己の姿も見えてくるように思います。
完成した舞台は、澄んでいました。
おそろしいほどに簡潔ですみずみまで張りつめた美しい舞台でした。
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矢野静明さんの『思想の受容と倫理問題――瀧口修造論』という未発表論考をテキストに使い、複雑な問題を聴覚だけで読み取ることができるだろうかと心配でしたが、
舞台を観たことが作用し、アフタートークもそれぞれの問題として染み入ってくるのでした。
見せられるだけの演劇ではなく、読み取り考える演劇、それがモレキュラーシアターのおもしろさだと思います。
複雑でデリケートな視点から書かれたテキストを、掘り下げながらシンプルな形にまとめたのは驚くべきことでした。
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具体的なことをいくつか。
最初に聴こえてきたのが飾らない男性の声であったことは、誠実と評価される瀧口の一面を対置し想像させるのに十分でした。
暗転の長さが、回を重ねるほどに洗練されていくのを感じました。
パフォーマーの方々が演じたものに対しては、心底感心し、長く同じ姿勢と表情をこらえる姿に苦悩の極みを見、それがふいにゆらぎ歪む瞬間は鬼気迫るものがあり、こちらもゆさぶられました。
また出演者スタッフが深い理解のもとに作り上げている舞台だと感じるのは気持ちのよいことでした。
本番中もそれが終わってからも、全員揃って清々しい印象なのはモレキュラーの純粋さゆえなのでしょうか。
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とても充実した3日間でした。
すぐれた授業を受けた後のようです。
時間が経つほどに、観たものが整理され、印象が強くなるように思います。
長時間露光のように、わたしに焼きつけられていきます。
矢野静明さんのテキストの「モラル」と「エチカ」の問題、生きていくうえで、これからも自分に問い続けると思います。