仕上げなければならないものがあり、
別のことに集中していて、遅くなってしまったのだけど。
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もう2週間も経とうとしているのに、いまだにあの二日間の
濃い時間のなかをくぐりぬけているよう。
座・高円寺で観たモレキュラーシアターの『のりしろ』。
劇中流れた寺山修司の「黒田さんの詩のなかの登場人物は、
いまも何かをしているべきなんです」という声が耳から離れない。
その声を演じたのは演出家でもある豊島重之さんで、穏やかな声の
及川廣信さんの声と交互に重なり交差しあい、強く印象を残した。
寺山修司の声は聞いたことがないけれど、似ているのかもしれない。
対談のおもしろさも伝わってくるような声だった。
黒田喜夫の詩と対談がテキストとして使われ、
その声がフーガのように次々流れる。まるでサブリミナル。
闇に仄かに浮きあがる舞台を観ながら、読んだ時の感覚が鮮明によみがえる。
帰ってから確認のために、対談が載っていた雑誌を探したが見当たらない。
黒い本の山を崩して探したが、やはり見当たらない。
寺山修司の顔写真が載った雑誌を持っていたような気がするのだけど。
(別の特集号は見つかった)
では、『自然と行為』で読んだだけだったのか。
と開いてみると、付箋がついていない。
ということは、本が届いた時に、目次を見て拾い読みしただけだったのか。
それにしては、記憶が鮮やかである。
果たして自分の記憶だったのか、演出家の記憶だったのか、
声と一緒に今観た舞台に刷り込まれた記憶なのか、判然としなくなってしまった。
舞台を観、声を聴きながら、『地中の武器』や『自然と行為』を、
文字とは別の文字で読み返していたのだろう。
今回、足下から人ひとりを照らす四角い光面は、小さな土地や、
除名通告の紙片のイメージなどなどを次々と舞い上がらせた。
長く顔の無い首がくねる場面や、死の底からこちらの世界を
覗き見るような姿は特に凄みがあった。
舞台を見ながら、黒田喜夫の死という事実を思う。
死のほうからでなければ、生の全体は見渡せない。
黒田喜夫がモレキュラーシアターの舞台を観たら、どう思っただろう。
もしかしたら、向こう側の世界から、こちらを観ていただろうか。
いや、わたしたちも舞台を見ている間、死者の世界にいたのだと思う。
舞台に立つ死者たちは皆、見知った者たちのように、どこか懐かしい顔だった。
書かれた声を粉砕するシュレッダーの箱の中で光る砕片が、
虫かごで光るホタルのように見えたのだけど、あれは演出だったのだろうか、
偶然だったのだろうか、尋ねようと思って忘れてしまった。
光るホタルがあの箱の中に封じ込められていたのだとしたら、
光らない無数のホタルたちは、箱から抜け出し、わたしたちの間を飛び交い、
闇に紛れてわたしたちの肩や胸に黒くとまっていたのだろう。
2度観たが、見落としているところがあるようで、また観たくなった。
それにしても、声だけではなく、演出家が舞台に立つ姿も見たいと
欲が出たのは、わたしだけだろうか。
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画家の伊藤二子さんはじめたくさんの人と再会し、思いがけない人と出会い、
夢のような二日間だった。
舞台を観て、いろいろなことが整理された。
『詩と反詩』を境に、その後のものを読み返している。