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夏の間、つい最近まで、ちょっと余裕が無くて自分のことでせいいっぱいだった。
一段落したはずが、抜け殻のようになってしまい、なにも手につかないまま数週間。
ようやく、万年筆にインクを入れたり、墨と筆を出してきたり、
すこしずつ後回しにしていたことをやりはじめたところ。
入院している人へと写真を預かったので久しぶりに病院へ。
「すこしでも思い出してくれればと思って」と80年近くの古いつきあいだという
そのやさしい友だちと写った写真を1枚1枚いっしょに見る。
すると黙って横になったままのその人が、
動くほうの手でその写真に手を伸ばし、涙ぐむ。
これは懐かしいということ?つらいということ?その両方?
どういう気持なのか考えて、わかろうとする。
けれども会話ができていた時も、わたしはどのくらいわかっていたというのだろう。
わたしにとってその人がどうなのかということしか考えていなかったかもしれない。
その人にとってわたしは、どうだったのだろう。
わたしはやさしかっただろうか。
やさしくなかったかもしれないね。
ごめんね。
この夏はわたしも体調が崩れて、そろそろそういう年齢なのだろうと覚悟も決め、
この先のことを考えて今までにない不安を感じたりしていたのだけれど。
なんてことだろう。
わたしは自分のことしか考えていなかった…と帰り道なんども思う。
なんてことだろう……。
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夕べ、友人にカードを作り、辻征夫さんの「みずはつめたい」を写したものも入れる。
それで夕方、電話をしようと思っていたら、なんとその友人から電話がはいる。
「びっくりしたよ」と言うと「テレパシーですかね」と笑う。
この20年近くのつきあいになる友人とは、そういうことがとても多い。
彼のまっすぐな性格がそういう偶然をつくっているように思う。
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出張販売で京都の豆腐屋さんのお店が出ていたので、飛竜頭、胡麻豆腐、揚げ、
それから青大豆の豆腐を買う。
「京のおばんざい」という言葉に弱い。
東北の田舎育ちのわたしにとっては、あこがれの異食文化なのだ。
買ってきたその日に、半丁を軽く塩をふって冷や奴で食べる。
翌日、生で食べたい気持ちをおさえ、豆乳鍋にする。
ちょうど南瓜をいただいたので、電子レンジにかけてから鍋へ。
鍋に出汁昆布を敷き、豆乳、豆腐を入れ火にかけ、ふつふついってきたら
野菜や肉を入れて静かに火を通す。
塩で味をととのえて、青ネギを散らす。
きょうは、南瓜、エリンギ、エノキ茸、ホウレンソウ、豚肉、それからモヤシ。
豆腐と豆乳ならば、モヤシもあうだろうと思って。
とろとろでおいしい。
わたしは出汁や水は入れずに豆乳だけで作ります。
昆布の粉末というのがあったので入れてはみたけど、豆乳だけでいいかも。
見ためよりもあっさりでおいしいです。
具を食べてから雑炊にするつもりが、スープが残らず、
しかもおなかいっぱいに。
考えてみたら、鍋いっぱいの豆乳ですから十分な量です。(笑)
南瓜を翌日のお弁当に。
黒米ご飯のゆかりがけ、モヤシのナムル、鶏のオーブン焼き、
茄子とズッキーニとニラの豆板醤みそ炒め。
鶏のオーブン焼きは、巷で話題の「鶏はむ」なるものを作ろうと思ったのだけど、
二日間ただ何もしないで待つということができずに、
しかも買ってきたのがもも肉だったと気づいてすっかりくじけ、
数時間マリネしたものをオーブンで焼いたもの。
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今、漆器や木の器に興味が向いている。