もう先月のことですが、映画『サラの鍵』を観ました。
今年はじめて映画館で観た映画でした。
(写真は無関係です)
公式HPは、こちら。
少女は弟を納戸に隠して鍵をかけた。
すぐに戻れると信じて――。
1924年。パリ。ユダヤ人一成検挙の朝。
酷く、悲しく、苦しく、切なく、強く、圧倒される映画。
少女サラが、その時代の人々が、置かれた絶望的な状況。
非道な権力が無辜の人々を押しつぶしてゆく愚かさと、
胸張り裂け打ちのめされながらも、起ちあがる姿の尊さ。
不幸を体験し、癒えようのない傷と苦悩を負い、それを秘めたまま、
償われようのない過去から遠ざかるも消えない悲しみの刻印。
小さな火を灯しつづけるかのように、希望をつなぐような展開が、
悲惨な場面を観つづける救いにもなっていたように思います。
奪われた命にしるされていた一人一人の名前を、
明かりを掲げて見出すように。
抗い難い大きな力(暴力)が動いていくなかで、
そのなかに呑みこまれていた人物が、個に引き戻された瞬間、
はっとして良心が目覚める場面が印象的でした。
個人としての「良心」が、それを手放さないかぎり、
最後までわたしたちの希望となるのではないかと思います。
この時代を生きていく手がかりを得たようでした。
過去は書き直しようがなく、それでも生きてゆかねばなりません。
過ちをくりかえさないように、心をあらたに決然とした態度で
進んでいくよりほかないと、静かな決意と勇気も湧きました。
辛く厳しい内容ですが、一人の命、一人の人生を超えて
つづいてゆくものがあるということに、ひとすじの光を見出し、
人間を信じる気持ちが失われていないということにも気づかされる、
清々しい余韻を残す映画でした。
みなさまも、ぜひ。
ついでに。
昨年観た映画になってしまいますが、
『エンディングノート』はとてもよかった。
言い過ぎも、失敗も、家族ならではのおおらかさでゆるしてしまう
ところにほっとしつつ、さいごまでユーモアを持ちつづけていた
お父さんがすてきでした。
◆
『前キリスト教的直観』(シモーヌ・ヴェイユ/今村純子 訳 法政大学出版局)
を読む。これも先月のことですが。
出版されていたことに気づかず、今年最初に買った本です。
先の映画を観ながら考えたことに、重なるので。
読みながら、これは毎年読み返すことになるだろうと思っていたら、
「訳者あとがき」に同じことが書いてありました。
今もっとも深く染みいってくるヴェイユの言葉です。