このごろ常子が夜分になってねますと、毎晩決まって見る夢があります。
それはすうと冷たい風が吹いている所を、羽の生えた子どもに手をとられて
走っていくので、雲かと思う所を入っていつも見るのは神様だと思う
気高い美しい女の方なのです。その方はお重ねになった白い手のひらへ
まりほどの玉をのせていつもながめておいでになります。そしてなんとも
いえないさびしいお顔をしておいでになるのでした。
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***
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「常子。」
と神様はすきとおるような声でお言いになりました。常子はおそれいって
しまいまして顔も上げられませんでしたが、ようよう思い切って上を見ますと、
神様は苦しみにたえないような目で常子を見ておいでになりました。
天使はまた雲の中を通って常子を送ってきました。
「天使さん、神様のお苦しみはなんなのですか、お玉はなんですか。」
これは、与謝野晶子の「神様の玉」という童話の一部です。
いつも本の話をなさる方が、「子ども向けだけど、読むかしら」と
『齋藤孝のイッキによめる!名作選 小学3年生』(講談社刊)という本を
置いていかれました。
「文字が大きいから、老眼でもらくなのよ」
なるほど。
さくらももこから始まり、宮沢賢治の「よだかの星」、落語の「時そば」まで
10篇の名作が収められています。
「神様の玉」はその中の一篇です。
不勉強なわたしは、与謝野晶子がたくさんの童話も書いていたことを
知りませんでした。
さて、神様の玉とはなんでしょう。
ほんとうはそれについて話したいのですが、それはこらえて
言わないことにします。
与謝野晶子が、明治時代に書いたのが、不思議に思えるくらいです。
子どもたちに、このお話を読んできかせたいな。
子どもだけではなく、おとなたちにも。
すっかり変わってしまったこの世界で生きてゆくわたしたちに向けて
書かれたのではないかとも思えてくる童話です。
◆
「桜の咲くころにいきたいわ」と言うのは、残された者たちの
ためだったのではないかと思う今日このごろ。
見送った記憶も、桜吹雪の額縁のなか。
「桜がきれいだったわね」と話すのは
どんなに残された者たちをなぐさめてくれるか。
花びらの舞う向こうに思い出されるというのは、
亡くなった人にとってもよい供養になるのかもしれないですね。
そう思えるのもまた生きている者たちへのなぐさめ。
世の中は 三日見ぬまに 桜かな (蓼太)
職場の、目の前にあるカレンダーに書いてある句。
今年はまだゆっくり桜を見ていません。