火の鶴はとび…
火の鶴はとぶ…
箒草につつまれた藁の家は崩れる。稗の粒や米の花だけが散らばりちらばる。離島に流された楽人ほどにもあきれるほどにも。コスモスの咲きみだれる野づら、夕づつの吹上村への道を神のような童子かあなたか…と歩いたときほどにも。死んだ方がましだ! とおもえ遠い遠いわたし。火のようなかなしさ、草穂ほどのかなしみ。例えば、野で、金の梨の木の下で、水仙茶を飲みながら瞬間考えたことを全的に肯定したいと語るならば、風邪ひき猫も、花々も、うつくしい童子たちもすげなく去りゆく、去りゆくということは、ああ可哀そうな**、異郷の山顛で鐘の音をきくよりはるかにはるかに明きらかなことなのだから。
(福井桂子 詩集『浦へ』所収「浦へ ーー長詩ーー」内「 曲」より)
今日は、福井桂子さんのご命日です。
時を重ね、再び読み返し、詩の方へ、少し近づけたような気がします。
福井桂子さんの生地にも少し近づき、東北は日本海側の小さな村で、詩集をひらきながら。