今日、1月21日は、新井豊美さんのご命日です。
はじまりのかたち
そのままで、なんの歪みもない球体への憧れだった。
愛はみたされねばならなかった。
こどもは、ひかりの降る遠い半球のうえに立っていた。
蒼穹から注がれるあおの微粒子、頭上の振り子。
にぎやかな静寂が置き忘られた庭の
初夏の金だらいに波紋をたてていた。
『歩くための地誌』に収められた「書くことと歩くこと」という
エッセイの中の、「一本のオレンジの木への手紙」という詩の部分。
〈詩を「詩」と感じてそれを喜びを持って受け入れた最初の瞬間〉を
詩にしたものと書いている。
エッセイでは、そのオレンジが、実は港町の生家の庭にあった
金柑の木なのだとあって、興味深い。
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『流星ワゴン』というドラマを見ていたら、舞台が福山、鞆の浦だった。
新井豊美さんの詩と思いをたどりながら、尾道へ旅した時に、
福山駅で深夜バスを降り、再び路線バスで鞆の浦へ向かったのだった。
2013年2月24日の鞆の浦の写真。
夜明け前に福山駅に着き、鞆の浦へ向かうバスの中で日の出を見、
早朝の清々しい時間に鞆の浦を歩いた。
そして沈む夕日を、尾道で見送った。
初めて歩く町なのに懐かしく、古い家並みがいとおしかった。
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『歩くための地誌』には、「野の果てまで」という福井桂子さんの全詩集に
寄せた文章も収められている。
冬には純白の雪に覆われ、春には花々が咲きみだれ、澄んだ水が流れる
詩の舞台。そこは小動物や鳥や虫たちの国であり、風の行き来するこの
世の外のもう一つの世界でもあって、福井さんの詩はその遠い国への
懐かしさと寂しさのいりまじった情感で丹念に織りあげられている。それは
わたしにとっても、生の原型への憧れを満たしてくれる唯一の場所のように
思われた。
この部分を読みながら、わたしのなかで、新井さんと福井さんが交差する。
そして「西の国に生まれ育った」新井さんの詩の場所へ向けて、福井さんと
同じ東北で生まれ育ったわたしの思いも交差するのである。
『草花丘陵』を持って、「みずうみ」という詩の舞台を、今度はゆっくりと
歩いてみたいと思っている。