たとえわたしたちが独りで生きるとしても自らの内に守るべきものを抱えているならば、
わたしたちの肉体は守るべきそれを安全な場所へと運ぶ最強の容れ物となる。
それが愛かどうかという理屈は置いておくが、本能的にその身の内に、
相手の存在まるごとを匿い守ろうとすることもあるのかもしれない。
女性性について語るつもりはないが、「妻」と口にする時にはある特権が与えられる。
妻に対して「母」とは特権でもなんでもないというのがわたしの思いだが
(もちろんそう言い切るほどの特権もわたしには無いのだけれど)、
「母」とは困難な事態の中で目覚め、独りで生き抜く姿でもあるように思う。
ダルデンヌ兄弟の『ロルナの祈り』を観る。
胸をざらつきながら擦過していく肌触りの悪いもの、あるいは耳に障る金属音のような
ある種の心地悪さと苛立ちを感じてしまうのは、
それが現実生活の中でも現れ答えを出せずに立ちすくむジレンマだからであって、
個人的な生活のなかで耐えようとするように、映画を観ながらも耐えようとしてしまう。
矛盾と葛藤を自分の眼差しの先に見つめ続けながら、映画を観終えるのである。
最後まで観終えてから、重い問いかけが自分の胸に置かれたままであることを感じながらも、
いとおしくあたたかい思いが湧くのは、ダルデンヌ兄弟の問いかけが糾弾ではなく、
それぞれが気づくまでの時間に猶予を与えてくれるからだろうと思う。
映画館を出てから、その後の人生すべてをその答えを見出す時間に使ってもよいのである、
たぶん。
この監督の以前映画館で観た作品は2002年の『息子のまなざし』だった。
いまだに映画館を出た時の複雑な自分の気持ちのあり様とともに思い出す。
今回の『ロルナの祈り』もまた、観終えて時間が経つほどに作品への思いを強めている。
映像は繰り返し通過してゆきながら、その度に必要なことを気づかせてくれる。
そして熾き火のように自らの灰にくるまれたその火は消えず、
ほのかに暖め続けてもくれるのである。
自転車を押しながら並んで歩き、逆方向に別れ自転車で走りだした彼を走って追いかける場面が
かわいくて切なかった。
自転車が泣けるのは、懸命に走れば追いつくくらいのスピードだからだ。
笑顔で駆け出したくなるほど、その瞬間、二人は幸福だったのだ。