タキグチでありながら、逆の方から、つまり足下から、過去の言葉の方から照らされ現れた、全く別の形相のタキグチ。
生き延びるために分裂し生まれてしまった別の自己。
自らを丸呑みし、それをまた呑みこみ、入れ子となったタキグチ。
明るい口腔は踏絵のようにも見え、真実を語る素振りのタキグチが立っていたのは、まさにそのような場所だったのかもしれません。
瀧口修造と同じ時代や苦難を通り抜けずに、この時代から、その立っている場所に我が身を置き換えてみることは、意味合いは違うとしても踏絵を踏むような緊張があります。
想像だけで考え、証明できないことを口にするのは勇気が要りますが、つまり自分は何を貫きたいのかと考えれば、複雑な問題は整理され、葛藤で舞いたつ澱は澄み、真の自己の姿も見えてくるように思います。
完成した舞台は、澄んでいました。
おそろしいほどに簡潔ですみずみまで張りつめた美しい舞台でした。
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矢野静明さんの『思想の受容と倫理問題――瀧口修造論』という未発表論考をテキストに使い、複雑な問題を聴覚だけで読み取ることができるだろうかと心配でしたが、
舞台を観たことが作用し、アフタートークもそれぞれの問題として染み入ってくるのでした。
見せられるだけの演劇ではなく、読み取り考える演劇、それがモレキュラーシアターのおもしろさだと思います。
複雑でデリケートな視点から書かれたテキストを、掘り下げながらシンプルな形にまとめたのは驚くべきことでした。
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具体的なことをいくつか。
最初に聴こえてきたのが飾らない男性の声であったことは、誠実と評価される瀧口の一面を対置し想像させるのに十分でした。
暗転の長さが、回を重ねるほどに洗練されていくのを感じました。
パフォーマーの方々が演じたものに対しては、心底感心し、長く同じ姿勢と表情をこらえる姿に苦悩の極みを見、それがふいにゆらぎ歪む瞬間は鬼気迫るものがあり、こちらもゆさぶられました。
また出演者スタッフが深い理解のもとに作り上げている舞台だと感じるのは気持ちのよいことでした。
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とても充実した3日間でした。
すぐれた授業を受けた後のようです。