ひかりは
ぬるい吐息のように吹き込んできた。
伏せていた影が黒蝶となって舞い交い、眩しさに追いつめられた姿で壁に展翅される。
(スーハ!6号に載せた「カメラ・オブスキュラ」より)
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4月25日に観たモレキュラーシアターの「バレエ・ビオメハニカ」、
アフタートークを頼りに、復習のつもりで。
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舞台前面は、壁。
追い詰められ、苦悶する身体。
わたしたちはそれを見ているが、その場にはいない。
なぜならば、そこは密室であり、そしてそれがあった時間と、
わたしたちが今生きている時間はちがうから。
だから緊迫する舞台と安全な客席は時間によって隔てられている。
壁には白いプロジェクターの光が映し出され、
転換の度に、その四角い光が一瞬閃き、客席に向けられる。
その瞬間、わたしたちを隔てていた時間はその四角い光
あるいは鋭い文書によって斬り裂かれ、生々しい空気が入り混じる。
時に、光は機銃掃射のように観客をなぎはらう。
わたしたちは一瞬目を瞑って死に、目を開いた瞬間生き返る。
そうやって歴史の断片が、わたしたちの記憶に差し挟まれる。
舞台では、悲痛な身体が入れ替わっている。
捕らえられたのは一人ではない。
次はわたしたちの誰か、あるいは自分かもしれない。
頸骨を締めつけるような音が自分の身体から出ているのではないと
確かめながら、目の前の悲劇に目を戻さなければならない。
悲劇とは舞台の上だけではなく、現実の身の上に起こることなのだと、
メイエルホリドが生きた時代の悲惨さと共に考え込まずにはいられない。
追い詰められ苦悩する身体がぶつかりかきむしる壁の向こうには、
取り調べ室の外の日常、あるいはメイエルホリドの演劇の舞台や客席が
あったのだろうか。
わたしたちが見ていたのは、舞台裏だったのかもしれない。
なにも映し出さない白いプロジェクターの光は、潔白を意味するのか?
自白の白?
生きている間にやってきた仕事のすべてを、焼き払ってしまったということ?
つぎつぎと考えながらも解ききれずに残ったものが、ゆっくりと深いところへ沈んでゆく。
それにしても、演じる身体はもちろんのこと、朗読する声にひきこまれる。
メイエルホリドの肉体のなかにいて、演説する声をその内側で聴いているようだった。
とすると、わたしたちが観たのはメイエルホリドの内面の葛藤であり、
わたしたちは彼の口に呑み込まれていたのだろうか。
そして今、メイエルホリドは別の口を借りて語り始める。
肉体の死が生きるということと同義であるためには?
極限状況において、肉体の檻から密かに解き放たれてはばたき、
生きのびた影を、鮮烈な光の中に見ていたのかもしれない。
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舞台はシンプルで美しい。
けれどもモレキュラーシアター主宰の豊島重之さんの文章のように、
そのなかに非常に多くの情報や緻密な思考が張り巡らされている。
観終わった時点から、読み返すように観たものを反芻しはじめる。
それが自分の言葉に置き換わっていく。
それが今でも続いている。
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写真の上の3枚は、娘からの贈り物のトイカメラで撮ったもの。