ミセス・チャールズ・ベル。
またの名をシェルピンク・ラジアンス。
レッド・ラジアンス。
もう赤い薔薇は買わないつもりだったけれど、
胸に沁みいる深い色。
ああ、こういう赤もあったのだと初めて知ったような思いがする。
和名は、「赤城」。
どちらも、ラジアンスという薔薇の枝変わりでできた品種だそうです。
樹形や香りは受け継ぎながらも、突然変異で花色のちがう薔薇ができることがあります。
花色はちがうけれど、やはりよく似ています。
香りのよい薔薇は、虫にもぐりこまれる。
朝起きたら、傷んだ花をいたわるように、向かいあって咲いていました。
しょげかえる花に、なにをささやいているのだろう。
かける言葉もなく、話を聴いているだけなのかもしれない。
庭で咲く花とはいえ、命の危機には、野生の強さと賢さで諭しているのかもしれない。
もしかしたら。
きっと。
深い森のみどりにだかれ 今日も風の唄に しみじみ嘆く
(「悲しくてやりきれない」)
もうだいぶ時間が経ってしまったけれど、
『その月は僕にとっては残酷な月だったけれど、君にはどうだっただろうか』
という4月13日に見た公演が今でも思い出される。
冒頭そして何度か映し出されたアニメーション。
花が咲き、星がまたたくこの世界に目をこらすと、どこかでは戦いの炎が上がり、
黒煙がひろがり、そして人が生まれ、傷つき、泣いたり笑ったりをくり返している。
そのなかに、泣きながら家から飛び出してきては
泣きながら家に駆け戻る女性がいた。
(ずっと泣いていたのではなかったかもしれないけれど、
細部はもう思い出せずにそういうイメージで残っている)
泣いていたその女性が、今でもかわいそうでたまらない。
その女性に重ねて、もう一人泣きながら歩く女の子を思い浮かべていた。
それは、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』(みすず書房)の
装画に使われたゴヤの版画の部分で、泣きじゃくっている小さな女の子だ。
戦禍から逃れるために一人でさまよっているのかと思っていたが、
版画の全体を見ると事情がわかる。
彼女は悲痛な現実のほうへ、駆け寄ってきたか小走りについていっているのだ。
それは『戦争の惨禍』という版画集のなかの1枚で、そのタイトルが
「可哀そうなお母さん!」だということを最近知った。
『その月は僕にとっては残酷な月だったけれど、君にはどうだっただろうか』
では、まるで映像から抜け出て、時空を渡るかのように歩いてくる
パフォーマーの麻生アユミさんが美しかった。
悲惨な出来事に、腹立たしい暴力に、不条理な病いに、耐え難い痛みに、
泣いている大人も子どももいる世界を、月のようにゆっくりと
白い光を放ちながら麻生アユミさんが歩いてゆく。
シンガーの本のなかで、アーロンがショーシャに語る世界の本を
ゆっくりとめくるように。
この世界には不幸や苦痛を負った人々がいて、
たとえ親しい関係でもそれを肩代わりできないはがゆさに
時にひきさかれそうになってしまうけれども、
大きな肯定のちからにゆだねながら、
そのちからにきしみながら、
それでもわたしたちの生きている世界の美しさについて
話したくなってくる。
舞台を、泣いていた女性を、女の子を思うたびに、
人間と世界のかたちについても考えている。