久田恵さんの『母のいる場所 シルバーヴィラ向山物語』を読んでいる。
久田さんのことはずっと大好きで、いくつかの言葉を思い返しては
いつも勇気づけられている。
すべての作品を読んでいるわけではないのだけれど、久田さんの考え方や受け容れ方、
そして人生の選択のしかたが気持ちよい。
潔くてあたたかい。
自分の人生を自分で選択できるうちは、希望があるのだと思う。
時に選択するのは自分なのだということさえ忘れてしまうが、それに気づくと踏み出せる。
私にとって、久田さんは、踏み出す勇気を与えてくれた人だった。
今でもいざという時には、久田さんが書いたものを思い出しながら、踏み出すだろう。
いずれは選択できないことも引き受ける時が来るとわかっているが、
それぞれの人生がその人のものであると考えることは、息詰まった考えをリセットして、
考え直す気力を取り戻させてくれる。
この本は、脳血栓で倒れた母親を10年間自宅介護し、限界を感じ
老人ホームに入れる決断をすることから始まる。
「日常に介護を抱えて心理的に拘束されて暮らすことが、
どれほど葛藤に満ちたものなのか。一日たりとも安らぐことができない。
それは、仕事の大変さとは異質のもので、日々、自分の他者への
誠実さや優しさや忍耐力が問われ続ける。つまりそれは、日々、
誠実でもない、優しくもない、こらえ性もない自分に向き合い続けることで、
その状況に長年心身をさらしていると本当に傷つき果てるのだ。しかも、
相手は愛憎の深い肉親であり、さまざまな思いが絡み合っていて一筋縄ではいかない。」
久田さんと同じ決断をすることができないにしても、こうやって書かれたものを読むことが、
どんなにほっとすることか。
この本を読みながら、今がんばっている人たちを思っている。
映画も観たかったな。
キッチンに飾ったイングリッシュローズのヘリテージ。
ころんとしてかわいいでしょう。
時間が経つと、花びらの色がうすくなりこんな感じ。
今日は、玄米のトマトリゾット。
リゾットというか水加減が多すぎてリゾット状態に。
うーん、写真も今ひとつかも。
実は、食卓の写真を撮る練習をしているのですが、なかなかうまく撮れない。
食べる前に撮るというのがまたたいへん。
どこかに玄米を炊く時にヨーグルトを一匙入れると、白米のような感じになると
書いていたのを見たので入れてみたけれど、トマトの風味で、今ひとつ効果はわからず。
柚子皮の千切りを入れたカブの梅肉あえ、カブの葉をごま油で炒めて
味醂と醤油をからめたもの、豚の角煮、残り物の鍋を汁物がわりに。
いただいたラ・フランスに生ハムをのせて。
生ハムは国産、ラ・フランスは熟したほうが、とろける食感どうしでおいしいです。
もちろん、ラ・フランスはそのままでもおいしいですが。
しつこく、玄米生活のつづきです。
昨日つくった玄米生姜混ぜご飯。
レシピというほどではありませんが、
玄米3合・水4合・生姜1かけ(千切り)・塩ひとつまみ
を、鍋に入れて、15分加熱、その後自然放置。
(※その後、水は減らして3合+3分の1合くらいと気分次第の水加減で炊いています)
その間に別鍋で、細切りのごぼうと人参を炒めて
舞茸と蒸して裂いた鶏ささ身を加え、
酒と塩を入れて炒り煮します。
火がとおったら、炒って水気をを飛ばします。
炊き上がった玄米生姜ご飯に混ぜてできあがり。
ほんとは醤油で味付けしようと思ったのですが、
なんと切らしていたのですよ。
でも、まあまあでした。
3合炊いて、1合半食べました。
炊き立てをいつも食べ過ぎてしまうので反省。
でも、ご飯食べると、翌朝なんだか脳が元気なのですよね。
玄米だととくにそう思います。
これはお昼のお弁当になりました。
向こうの小鉢は、キャベツの蒸し煮。
玉葱の柚子酢漬けで味噌をのばして、からめて蒸し煮します。
☆
それで、今夜は何を食べたかというと、卵かけご飯。
銀しゃりはやはりおいしいです♪
実家から新米が届く。
今年は玄米で送ってもらった。
さっそく炊いてみる。
ずーっと前に、しばらく玄米を食べたりしていたのだけど、
今の圧力鍋で炊くのは初めてで、しかも鍋についていたレシピが見つからない。
(圧力鍋はビタクラフト)
しかも白米は1度失敗しているので、自信がない。
玄米3合に水4合で試すことにする。
(量るのが簡単そうだから、これでよかったら覚えやすい)
塩もほんのすこし入れる。
(※その後、水は減らして3合+3分の1合くらいと気分次第の水加減で炊いています)
前夜に(といっても既に2時半だったけれど)研いで炊くだけにしておく。
発芽させるのには、もっと時間がかかるんだろうな……。
それで朝一番に火をいれ、ピンがレベル2まで上がったら火を弱めて、
その状態を維持しつつ15分加熱。
その後、自然放置。
たしか15分もしないでピンが下がって、蓋をあける。
かき混ぜてすこし蓋をあけて蒸気を飛ばす。
早起きしたわけではないので時間がないと思いながらも記念撮影♪
いただきます。
おかずなし、玄米のみです。
母が漬けた茗荷や生姜が入った梅干といっしょに。
玄米はよく噛んで食べましょうというけれども、写真を撮ったりしたので時間がない。
あわてて頬張りのみこむ。
それで、昼は玄米のおにぎりをお弁当にする。
1個目ちょっと大きすぎたと思い、次もまだ大きいと思い、3こにぎる。
大中小のおにぎりになる。(笑)
夜はこりずに玄米チャーハン。
ベジタリアンではないので、ベーコンも卵も入っている。
見た目はふつうのチャーハンだけど、ぷちぷちした食感がなかなかよい。
わたしが食べているものに誰も興味なんか湧かないと思うけど……。
新米を炊いた記念ですから。
ベランダの1枚も。
風船蔓のくるくるまるまったつる先がかわいいでしょう。
+
母が「近くに住んでいれば野菜をあげたりできるんだね」
「トマトとか買ってるんでしょう」と電話でしみじみ言う。
今年は食べきれないくらいに野菜ができたらしい。
ひさしぶりに書店に寄った。
探していた本は在庫なしとのことで、かわりに立ち読みした本を
棚に戻すのではなく、抱きしめてレジに行く。
ほんとにひさしぶりに料理本を買って帰る。
最近はレシピもネットで検索してしまうが、カツ代さんのレシピははずれがないし、
ワイン用につくり置きするキノコのマリネは栗原さんのレシピのアレンジだ。
料理が得意なわけではないけれど、夕飯は家でゆっくり食べたいという理由で、
ほとんど自分で作る。
ネットでレシピを探すと材料などを比較して選ぶのに時間がかかってしまうし、
あまりあてにならないけれど、自分の勘にたよったほうが失敗がなかったりする。
けれども時々、自分の味覚をリセットするために、レシピに忠実に料理してみる。
レシピを見ただけで、食べたことがない料理でもだいたい味の見当がつくというのは、
経験を重ねた結果ということか?
とあらためて自分の脳の不思議を思うが、誰でもそのくらいは思い浮かぶのだろう。
ところで買ったのは『コウケンテツのおつまみ』という本で、
この人の料理の酸っぱさ加減と私の好みがあっている。
しかも彼はさわやかな容貌をしている。
できれば友達になって、一緒にご飯を食べたり飲んだりしたいものである。
ついでに言えば、私はこぐれひでこさんの家にもおよばれしたいといつも思っている。
それで今日は、オリジナルレシピをご紹介。
ナスの餃子あんはさみ蒸し。
(なんだか冴えない名前だ)
この間餃子を作ろうと大量に餃子のあんを作ったまではよかったけれど、
包む前に微熱が出て具合が悪くなり、作業続行をあきらめ、
結局耐熱皿に全部放り込んで電子レンジで火を通しておいた。
餃子の中身でミートローフのようなものができていたのである。
それでどうしようもないそれをナスにはさんで電子レンジで蒸し焼きにしてみた。
ナスを半分に切って、厚みに包丁を入れ、餃子の中身をはさんで、
ゴマ油をナスに薄く塗ってラップをかけて電子レンジで7分くらい?
(うちの電子レンジはW数がちいさいので加減してください)
フライパンで焼いてもいいと思う。
火が通ったら、ポン酢をかけておきます。
(私はさらに柚子酢をかけます)
おしまい。
めちゃくちゃおいしい。
でもこれは、余った餃子のあんを生のままはさんでもよいはず。
私の場合は、ぜったい皮より包みきれなかったあんが残るので。
お試しください。
調子に乗って、餃子あん入りのトマトファルシも作ってみた。
オーブンで焼いて、やはりポン酢をかけて食べたけど、ナスのほうがおいしい。
ところで最近電子レンジがやる気なさそうに見えるのはなぜだろうと思ったら、
中のライトが切れて、調理中の様子がわからないのだった。
なんとなく加熱に時間がかかるような気がするし、時々調子も悪い。
ここのところ調理中に何度もブレーカーが落ちてしまったせいかな。
こわれないでね。こまったな。
これはキッチンに飾っていたMrs.Herbert Stevens。
花びらがこぼれて蕊が見えたところで写真に撮りました。
ゆっくりひらく秋薔薇はきれいです。
スーハ!4号ができあがり、ほっとしているところです。
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それで、ひさしぶりに映画を観ました。
映画館で映画を観る時と、八百屋で店先に並んだトマトを買う時にはいつも、なんだかすこし正しいことをしているような気持ちになります。
髪を切った後に有楽町駅付近をふらふら歩いていて、通りかかったシャンテ・シネの上映スケジュールを見たら10分後に上映開始というので飛び込みました。
慌てていたのでチケット売り場で「イントゥーザワールドひとつ」と言ってしまい、あらら……
ショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』
観終わった後に、詩人になったような気持ちになりました。
ショーン・ペンは好きでしたが、もっと好きになりました。
観ている最中に「ピュア」「孤高」という言葉が何度も浮かんできたのですが、上映後に買ったプログラムの中にも、その言葉が出てきました。
映画をつくる人ってすごいなあ、ショーン・ペンてすごいなあ、とすなおに感心。
キャストもスタッフもこの映画のすべてに好感を持ちました。
それにしても、ウィリアム・ハートの額を見るだけで目がうるんでくるのはなぜだろう。
名優はおでこだけでも演技するのですね。
DVDが出たら買ってしまうかも。
よかったらみなさんも観てみてください。
それで映画を観た後、うるんだ目のまま映画館の近くの「椿屋珈琲店日比谷離れ」という喫茶店へ。
私は実は、ひとりでお店でお茶を飲むということがあまりないのですが、映画の余韻が大きくてそのまま帰るにはさびしかったので。
日曜で混んでいましたが、雰囲気はよいお店でした。
その後、有楽町のガード下のお店などを眺めながら歩きました。
この人、なんて名前でしたっけ?
「蜂ブド」の下がなにか気になるでしょう(笑)
有楽コンコース。
次回はこういうお店に入ろう。
それでさっきのはなんと「蜂ブドー酒」。
へえ、蜂ブドー酒……あまいかも、と興味津々。
というわけで、ささやかな休日の楽しみでした。
朝一番に読むものには、ささやかな特権がある。
たいていは出勤の途中で、それは推敲途中の自分の詩であるというのが理想だが、いただいた詩集だったり、詩誌だったり、ずっと集中して読んでいる本や資料だったりする。
目覚めたばかりの目と脳で、最初に触れるもの。
ここのところ少し調子が悪いのだけど(毎度のことですが)、そんななかで久しぶりに詩を書いている。
あまり元気があってもその分忙しかったり気分が散漫になったりで詩は書けないし、ひどく元気がなくても紙を持つのさえつらくて詩は書けないし読めない。
生活するにはちょっとエネルギーが足りなくて息も切れるのだけど、動く気力がない分どこかが休んでいて、その休んでいる状態がちょうどよいという感じ。
熱を出して学校を休んで、ふとんのなかであれこれ考えているような感じかな?ちょっと違うかな……。似ているかもしれないけれど。
それで、朝一番に読む自分の詩が手許にあるということは、とても安心することです。
酔芙蓉をいただいたので、仕事のあいまに写真を撮りました。
朝ひらいた時には真っ白な花びらが、時間とともに色づいていきます。
その様子が、まるでお酒に酔ったようなので、「酔芙蓉」。
これは、午後2時前くらいに撮ったものです。すでに白桃色です。
そして2時間後の4時すぎには、花びらがさらに色づききれいな桃色に。
うーん、あんまりわからないかも……。
微妙なのですよ。(と何故か言い訳)
そういえば朝、おそろいのピンク色のレインコートに長靴はいたちいさな姉妹を見たのでした。
かわいかったな。
私は10代後半の頃ピンク色がとても好きで、洋服もピンクのものが多かった。
今の姿からは想像つかないかもしれませんが、今でも実はピンクが好きです。
今週は、酔芙蓉の写真を載せる予定。
たぶんしつこく同じような写真ばかりになると思います。(笑)
これは三時草です。
「三時くらいに咲くから三時草っていうのよ。でも、三時には咲かないの」
と数年前に、いつもお花をいただく方から教えてもらいました。
自宅の近所で見つけて、「あ、三時草」と思いながら出勤していましたが、
ある日の夕方、咲いているところに通りかかりました。
出かける用事があったので、あわててカメラを取りに行って写真に撮りました。
うーん、あまりうまく撮れていません。
でも、まるい蕾もちいさな花もかわいいでしょう。
線香花火のようです。
そういえば、三時くらいに咲くというので、職場に飾った花がひらくのを、
じっと見つめて待っていたのでした。
三時には咲かなくて、四時くらいにひらいたような気がします。
あんなに辛抱強く待っていたのに、どんなふうにひらいたのか思い出せません。
たぶん気づかないくらいゆっくりとひらいたのでしょうが、
もちろん仕事もしていたので、ちょっと離れたりまばたきしたすきに、
そっとひらいていたのかもしれません。
あ、でも、だんだん花びらがそっていくのを見ていたような気もします。
まだ、あちこちで見かけると思いますので、興味がある方は四時前くらいから
じっと観察してみてください。
銭洗弁天から道案内を頼りに、佐助稲荷に着きました。
こんな感じ。
うーん、誰が撮っても同じような写真になりそう……。
おびただしい数の鳥居が延々とつづきます。
階段の上まで、ずーっとつづいています。
それにしても、この幟は無いほうが、鳥居の赤が引き立ち、連続する鳥居がすっきりと印象的に見えるような気がします。
お稲荷さんですから、あちこちに狐が姿を現します。
あそこまで上りますよ。
木々や草むらの緑にほっとします。
鎌倉では蝶をたくさん見ました。
写真に撮れなかったのが残念です。
さて、階段を下りて帰ります。
これはエアープランツの一種?
よそのお宅を眺めながら鎌倉の駅まで歩きました。
それで、北鎌倉の駅前で買った光泉の稲荷寿司ですが、結局うちに帰って食べたのでした。
まだ暑かった頃ですので、帰ってからビールをあけて、それといっしょに。
美味しかった♪
狐がついてきちゃったかも。
もう2週間以上前の話になってしまって、すみません。
鎌倉散歩、これでおしまい。
前々回のハイキングコースのつづきです。(月が変わってしまいました……)
ハイキングコースの道標を頼りに、坂を下っていきますよ。
実際に見ると、雰囲気のある場所に立っている標識です。
その奥に石仏があるのですが。
坂を下っていきますよ。もうじきかな。
あ、見えてきましたね。あそこですね。
鳥居をくぐるとトンネルです。
さあ、その向こうは?
鳥居が、「ぎっしり」という間隔で立ち並んでいます。
それをくぐって出ると、やはりぎっしりという感じで神社や店があり、思ったより境内も広くありません。
でもそれがまた、不思議な感じ。
この奥に岩屋があるのですが、その湧き水でお金を洗うとお金が増えると言い伝えられていて、混んでいます。
それで最初からあきらめて、洗いませんでした。
もちろんお金が増える気配もありません。
日も翳ってきましたので、急いで次の場所へ向かいます。
(つづく)
9月26日は、詩人の福井桂子さんのご命日です。
はやくも一周忌なのですね。
+
+++
+
二階の廊下も床も木材で
木枠のある古風な
夏の窓を
すこし首をかしげてのぞきこむと
子どものころの
わたしの家の夏の庭がみえた
光りといっぱいの草の花と
つき山とほのぐらい楓の木の茂みと
死んだ弟がよく本を読んでいた小廊下と…
ふしぎさにもっとみたくて
再び頭を巡らすと
透きとおった夏の窓は
あっさりと消えてしまい
わたしは厚い雨雲に包まれてしまった
どうして忘れられよう
エゾ松林の生き物とばかり話している童子を
沼の方の音道から聞こえてくる
りんりんという物おとを
あれは霜の森のざわめき
またはぶっぽうそうのうそつきの啼き声
(福井桂子『風攫いと月』書肆山田刊「沼の方の音道から聞こえてくる」より)
浄智寺を右に見て、ハイキングコースを歩きます。
緑の多い鎌倉は、歩きながら見る植物も楽しいですね。
植物図鑑ほしいなあと思いました。
もしくは植物に詳しい道連れがいるといいな。
「これは?」と尋ねたら、すぐに答えてくれる人。
道連れは見つけるのが難しそうなので、よい植物図鑑があったら教えてください。
ついつい立ち止まっては、写真を撮ってしまうのですよね。
歩くのが楽しいハイキングコースです。
門柱のてっぺんに、モミジ。
これは自然に生えたんでしょうか?ねえ?
かわいい。
葛原岡・大仏ハイキングコース、
歩きやすくて楽しいコースだなあ、とのんきに歩いてたのですが。
えー、急に険しくなって、あらら、道も無くなる。
しかし森の中を歩くのもまたいいですね、なんて思っていましたが。
こんなとこや……(ここはまだよいほうですね、道ができてる)
こんなところばかり。
最初、木の根の写真を何枚も撮ってしまいましたが
ずっと続くのですよ、こんなところが。
頂上付近で、自転車を担いだ青年とすれちがったのですが、
この道をそのまま担いで行ったのだろうか……。
一人で暗くなったらこわいかも……と思っていたら、ようやく舗装された道に出ました。
さて、銭洗弁天はもうじきです。
でも、この道案内、実はわかりにくい。
どっちに行けばよいのかよくわからなかったのですよ。
でももう少し歩くと、自分の判断が正しかったとわかる案内板が出ていました。
さあ、銭洗弁天はもうじきです。
(つづく)
さて、トンネルを抜けましたよ。
振り返るとこんな感じです。
布袋尊像がまつられているのですが、若者たちが順番におなかを撫でて記念撮影をしていたので、遠くから眺めるだけにしました。
「元気がもらえる」とのことですが、ご利益がありそうな場所は人気で混んでいて、すぐにあきらめてしまう私です。
こういうところで並べないのがいけないのかも……と思いながら。
御墓参りを済ませ、駅前で買った光泉のいなり寿司をひらきかけたのですが、すでに2時半です。
足を延ばしたい場所があったので食べずに仕舞い、足早に浄智寺を見てまわりました。
真っ直ぐに伸びた先をつい見上げてしまいますが、上を見ても美しい。
あらら、幅が同じだと上も下も同じような写真に見えてしまいますね。
同じ場所ですが、縦と横で。
どの写真も、クリックすると大きなサイズで見ることができます。
住んでもいいなあ、住みたいなあと思ってしまうほどです。
居心地がよくてついゆったりと眺めてしまいます。
でもまだ行きたいところが。
日が暮れる前にまわりたいので、そろそろ浄智寺を出ることにします。
地図を出して、いざ。
(つづく)
きのう鎌倉の浄智寺に行ってきました。
ずっと行こうと思っていたのですが、時間が取れずにいました。
お昼過ぎくらいに北鎌倉の駅に降り、駅前の「光泉」というところで、いなり寿司とかっぱ巻きの折り詰めを買いました。
なんとなく鎌倉らしい(?)こともしなくちゃと思って……。
その割には目的地以外なにも調べずに出てきてしまったのですが、後で食べて、ここのいなり寿司好きな人多いだろうなあと思いました。
買ってよかったです。
それでまずは浄智寺に向かいました。
駅を降りて左に曲がって8分という案内でしたが、狭い歩道を歩く人が多くて、すれ違う度に傾けた日傘が車道にはみ出てしまうような気がして、結局は日傘もたたんで歩き、汗だくで到着しました。
ところが迂闊にも、お墓参りに来たのに途中であるとばかり思っていた花屋さんが1件も無かったのです。
(そういえば教えてもらっていたかも)
お線香だけ用意してきたのでした。
それでそのまま歩いて線路の手前のギャラリーの人に近所に花を売っているところはありませんかと尋ねると、駅の向こうに行かないと無いとのこと。
(親切に、気の毒そうに教えてくれました。ありがとうございました。)
それでもせっかく来たのですからもう一度戻って、教えていただいた駅の近くの玉子屋さんというスーパーで、お花を買いました。
花束を持って、念のためにペットボトルの水も買って、再び浄智寺へ。
着きました♪
水は出ていませんが「甘露の井」です。
白い鯉がかわいい。
さあ入ります。
時期が違えば、もっとたくさんの花が見られるのでしょう。
静かで懐かしささえ感じる建物や庭のたたずまいです。
やさしい雰囲気の眺めが多く、居心地のよい場所でした。
ここに眠る方々は、きっと穏やかな気持ちでやすんでいることと思います。
さあ、トンネルをくぐって向こうにいきますよ。
(つづく)
だいぶ前に送られてきたのにずーっと放っておいたレンタルDVDをようやく開けてみた。
届いていたのは『ザ・ワイルド』と『チャーリーとチョコレート工場』だった。
どうして……。自分がリクエストしたなんて思えない……。
ティム・バートンはともかく、ザ・ワイルドってなんだろ???
しょうがないので見てみる。
なんと人喰い熊と二人の男が繰り広げる決死のサバイバルを描くサスペンス・アクション(作品紹介そのまま)だった。
強い男に興味の無い私がどうしてこれを選んだのかわからない……謎のまま見終える。
私はわりとダメなタイプに弱いのである。
ストーリーよりも、この映画をリクエストした時の自分はどういう精神状態だったのか、ミステリーである。
わずかな手がかりといえば、アンソニー・ホプキンスが主演である。
アンソニーにはいつだって感心させられると、この映画を見ながらもしみじみ思う。
よい役者である。たった一人で映画を救う。
『帰ってきた時効警察』の後で期待がはずれてしまったこともあり私は☆ひとつだったけれど、賢いアンソニー・ホプキンスなら熊とも闘えると納得させるすごい映画かもしれない。
興味がある方はどうぞ。(こんな話で興味が湧くとは思えないけれど)
それでなんとなく、ワイルドって雰囲気の写真が見つからず、熊ならぬ牧場の牛である。
勝手にのんびり平和そうだと思って眺める。
しつこく縦でもう一枚。
雨が激しくなって、柵にあたってしぶきを上げている。
一面の大反魂草(オオハンゴンソウ)。
今名前を調べてみたら、帰化植物で、在来植物の生態系を脅かしているらしい。
昨年夏、青森の帰りにあちこちで見ました。
今になって複雑な気持ち。
+
1年前の写真ばかりだけれど。
今の職場で働きはじめてから、この9月で10年経った。
にもかかわらず、この年月で得られそうな貫禄というものが身についていない。
しかし、確実に10年で身についたものがある。
体重である。
1年に1㎏ずつ増えている。
いまだに順調である。
少し前までは、寝ずに原稿を書いていたりするとあっと言う間に4㎏くらい落ちて、なんだ寝ないと痩せるのかと思っていたけれど、最近は徹夜しても痩せない身体になった。
鍛えられたのである。
でもまあ、寝ずに落ちた分の体重は、やれやれ終わったと思うとあっと言う間に元に戻ったので、あれはただしぼんでいただけなんだろうと思う。
さてこのまま順調にどこまでいくか、密かにグラフの線の上昇角度をにらんでいる。
機会があったら、5年後くらいにまた中間報告をしたいと思う。
夏の陽射しの強い時期には必ず体調が悪くなって、今年もそれが長引き、回復しかけたところで原稿の締め切りが迫り、それが終わったところで用事が入り、そのまま月末月初の忙しさの中にいる。
ようするに、様々なことを片付けられずに、後回しにしてしまっている。
何かに取りかかると、まるで演じる役から抜け出せないかのように、一つの役で精一杯になってしまい、あの役この役と粉すことができない。
一つのことに集中しないと考えがまとめられない不器用さは生まれつきとあきらめている。
なので周りの人をきっといらいらさせていることと思いますが、どうかあきらめてください。
言い訳のようですが、一つずつ順番に読んだり書いたりしていきたいと思っていますので、どうぞ気長におつきあいください。
と書いておいたら、これを読まない人にも謝ることができたような気がしてきましたが、ここで安心してしまってはいけませんね。
手紙もメールも御礼も挨拶も遅れてしまって、すみません。
*
それでこの話にまったく関係の無い写真ですが、故郷の海に沈む太陽です。
夕日の町なのですよ。
なんとなくたそがれた気分ということで。(無理矢理ですね)
「あれっ、おばちゃん」
「あら、なによ。わたしが来たってわかった?」
「餃子の匂いがしたからな」
「餃子好きだったもんねえ」
「俺、何十回も電話したんだぜ。餃子食いたくってよ」
「だから息子のところに引っ越すって言ったじゃないの」
「この電話は使われていませんとか言われるしよ……」
「ありがとね」
「おばちゃん、うち寄ってくかい?」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
これは、30年以上もがんばった店をたたんで息子の住む街へ引っ越していった居酒屋のおばちゃんとその常連だった客が、思いがけず私の職場で再会した時の会話である。
日々ドラマである。
これは、去年の夏、故郷の山で撮った写真である。
夏も終わってしまったので、余計なつかしんでいる。
枝先にトンボがとまっているのですよ。
今ちょっと忙しくて、やらなければならないことを優先している。
家にいる時間が短いので、ほかのいろんなことを後回しにしている。
でも「まだ更新しないの」と半ばしびれをきらしたように言われたので、久しぶりにこうして書いているのである。
たしかに14日以来で、8月が終わる前にと、なんだか責任果たしたような気分である。
~~~ 8‐‐‐ ~~~ 8‐‐‐ ~~~ 8‐‐‐ ~~~
私は必要最低限の人間関係のなかで生きているが、気が合う人とはとことんつきあう。
惚れっぽくはないが、一旦好きになるとあまり浮気もしない。
洋服は同じ人からずっと買っているし、お気に入りの食材もそれを買う店も、だいたい決まっている。
髪も同じ人から切ってもらっている。
それで彼女が転勤になったので、遠いが転勤先の店へ行くのである。
今回が2回目で、これまであまり歩く機会のなかった街を、ついでにふらふらしてきた。
美容院で髪を切る間、置いてあったガイドブックを見て、地図を覚えた。
なのになかなか見つからず、やっと見つけた煉瓦亭。
ずーっと行ってみたいと思っていた。
これは前回行った時に撮ったもの。
お店が休みだったので、写真だけ撮ってきた。
日曜日が休みと知って、せっかく見つけたのに残念だなあと帰ってきた。
それで今回もふらふら歩いていると、行列ができているお店がある……と思ったら煉瓦亭だった。
私は夏期休暇に入ったが、日曜日ではないのでお店はやっていたのだった。
しかも、煉瓦亭の夏期休業の前だった。
それで並んで入る。
今から25年前くらいに、『煉瓦亭の洋食』という本を買い、以来ずっと行きたいと思っていた。
ソースのつくり方の手間がかかることに、作りたい気持ちは失せ、そのかわり食べたい気持ちが強まった。
同じシリーズの本で、「たいめいけん」へは行き、オムライスは食べた。
念願かなっての、煉瓦亭の洋食である。
しばらく待ってお店に入ることができ、地下のテーブルについた。
もちろん、「ポークカツレツ」を頼む。
古い建物で、設備もたぶん昔のままである。
カトラリーをいちいち、古い木の食器棚の引き出しから出す。
休日で混んでいるのに、何度も重い引き出しをひいては閉めて出し入れする。
いっそ出しっぱなしのかごなどに入れたほうが能率的ではないかと思うが、いやいや、ぎしとひいてぎしと閉めるのが衛生的である。
迷いもなく何度も開け閉めするスタッフにも感心したが、その回数に耐えている古い食器棚のじょうぶさにも感心した。
地下なので、料理はリフトで昇り降りし、お冷やの氷はクーラーバッグに入れて置いてあるのだった。
そして、料理は本で見たまま。
線キャベツの細さも、調味料入れも、写真のままだった。
味はやさしい。初めて食べるがたぶん変わっていないのだ。
それで私は、ポークカツレツとハッシュドビーフが食べたかったのだけれど、なにしろ一人で食べ切れなかったら困ると思って、ポークカツレツを頼んだ。
でも、日曜日以外にまた来れる日は遠いだろう。
そう思ったらますます食べたくなって、ハッシュドビーフのソースを追加できないかとおそるおそる頼んでみた。
するとお店の人が気を利かせて、デミソースをつけてくれた。100円だった。感謝。
というわけで、老舗の味は変わらず、人情もまた味わったのであった。(涙)
会計の時に、「20年以上前から来たいと思っていて、やっと願いがかないました」というと「それはそれはありがとうございます」と丁寧にやわらかい声で言ってもらい、私はさらに感激した。
老舗のレジスターは、重い音でひらいて上品にチンという。
おつりの小銭でさえ、鈍く光ったような気がしたのである。
ほんとうは、西瓜の話を書きたかったのだけど。
西瓜を食べる猫の写真が見つからなかった……。
ファイルを整理している間に、捨ててしまったらしい(涙)。。。
それで桃の話ですが……。
桃をいただいた。
「桃狩りに行ってきたから」といってもらった桃は、なんだか余計にうれしい。
桃狩りとか、みかん狩りとか、苺狩りとか、葡萄狩りとか、行ったことないんですよね~。
「好きなだけとって食べ放題って言われても、そんなに食べられないよ」
と言われたけれど、桃の食べ放題ってとても贅沢な気がする。
いやしい私は、子どもの頃から、もう食べられませんっていうくらい食べてみたいというささやかな夢があって、大人になってからいくつかは実現したのだった。
たとえば、コーヒーゼリー10個とか。
これはお店に8個しかなくて、無念に思いながら8個買って帰り、挑戦したのだった。
結果は6個食べてギブアップだったと思う。
大人になるってこういうことなのだと思った。
コーヒーゼリー10個買えるようになっても、6個しか食べられない。
夢は叶っても、ちっちゃくなるのだ。
話を戻して桃ですが、たしかに食べ放題と言われてもそんなに食べられないかも。
3個……かな?
ところで皆さんは、どこで桃を食べますか?
「どこでって?」
私は桃を持ってお風呂に入るのですよ。
それで、お風呂のなかでまるかじりなのです♪
以前は林檎と果物ナイフを持ってというのもよくやりましたが、床がすべって恐い思いをしたのでやめました。
なんとなく脈絡無く話しているのは、実はずっと体調が悪くて仕上げなければならないものがあるのにできておらず、非常にあせっているからです。
「じょうぶだけが取り得です」なんて言ったりするけど、実はへなちょこなんですよ。
桃ではないけど。
夕飯食べながら「帰ってきた時効警察」を観終え、なぜか「人生ってこんなもんだなあ」としみじみ思う。
アリバイとアリババって似てるよね。
では。
日曜日から体調が悪くて、のろのろと仕事をしています。
その前から微熱が続いてだるかったのですが、ひさしぶりにひどい夏風邪をひきました。
喉が痛くて声が出ません。
横になっても喉と躰中が痛くて、コーヒーだけではなく、ビールも飲む気になりません。
(飲んじゃいましたが…)
それで日曜日、あれもやらなきゃこれもやらなきゃと思いながらごろごろしてしまい、ああ何も手につかないまま一日が終わってしまう…と、太陽も気分も沈みがちだった時に、窓からオレンジ色の光の束が射し込んできて壁を染め、思わず起き上がって写真を撮りました。
普段は仕事をしているこの時間、休日に夕焼け空を見られるなんて、贅沢だなあ。
この夕焼け空から、一時ぱらぱらと雨が落ちてきたのですよ。
それにも驚いたのですが、向こうのビルに傘をさした人影が動いてびっくり。
見えるかな、傘さしてる人。
きっと、夕焼け空を見ていたんですね。
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今度は咳が出て、眠れないのですよ。
明日、月末で忙しいというのに。
小学校3年生のミサキちゃんが、1年生の弟たっ君をつれてやってくる。
それでお母さんに言いつける。
「おかあさーん、たっ君いま、おねえさんのことおばちゃんて呼んだんだよー」
(……)
(ミサキちゃん、たっ君はなんにも悪くないんですよ。むしろ、おばちゃんと呼ぶのが正しいのです)
ミサキちゃんはさらに
「おかあさーん、たっ君、またおばちゃんて呼んだよー。いつもおねえさんて言いなさいって言ってるのに」
(とほほ…)(苦笑)
ほらほら、お母さんも困っているじゃないですか。
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夕方、てっちゃんが、お母さんと一緒に保育園から帰ってくる。
わたしを見つけると「おねえさーん」と手をふってくれる。
もちろん、「はーい」と手をふりかえす。
ところが最近、てっちゃんは同年代のガールフレンドと一緒に歩いてくるのでつれないのだ。
わたしには目もくれず、ガールフレンドと並んで行ってしまう。
おばちゃんはちょっとさびしい。
それでこの話題にこだわっているわけではないのですが、「えー、こんなところで?!」と言われながら、今日もタバコを売っている。
たぶん、以前の30倍は歩いている。
と言っても、職場のフロアを行ったり来たりですから、たいした距離ではありませんが。
「目がまわるくらい忙しい」と思いながら、だんだんそれにもなれてしまった。
顔なじみも増え、仕事の行き帰りに寄る人には「行ってらっしゃい」などと声をかけ、今やすっかりタバコ屋のおばちゃんである。
先月、(たぶん)十数年ぶりに歯科に行った。
充填したものが取れてしまいやむを得ずだったのだけど、以来、全然問題のなかった歯が沁みるようになり、同時に頭から肩にかけて痛み、首が回せなくなってしまった。
放っておいても治りそうにないので、もう一度診てもらいに行き、「たぶん、治療の時にすこし削ったせいだと思う」というようなことを言ったら、医師が興奮気味に「認識の違い」について話し始めた。
私は、痛みの原因を解決したかっただけなんだけどな…。
それで口を開けたまま医師の話を聞き(なにも言えないでしょ)、なんだかめんどくさくなってしまい、「問題ないならもういいです」となにも治療せずに帰ってきた。
そこは夜9時までやっている病院で、仕事を休めないので、やっと見つけた病院だったのだけど。
治らない上にとても元気をなくしてしまい、夜遅くまでやっているスーパーに寄って、夕飯を買って帰った。
元気のない時には炭水化物をおなかいっぱい食べるのだ。
ご飯食べながら、元気の出るDVDを観るにかぎる。
今借りている『帰ってきた時効警察』は何度も観てしまったし(訓読みの「訓」て音読みなんですよね)、元気を出すなら『グロリア』だな…と思いながら帰ってきて、そういえば…と最近買った『リバー・ランズ・スルー・イット』を観ることにする。
私は一時、ブラッド・ピットのファンだったのだ。
ということも思い出す。
始まってすぐ、ブラッド・ピットが出てくる前に、そのよく似た子役を見て泣く。
ひさしぶりにブラッド・ピットの声を聴いて、昔の恋人の声を聴いたような気がする。
恋愛映画にはすでに興味を失い、しばらく映像を見てときめくということもなかったけれど、あらら…
今でもこの映画とこの映画のブラッド・ピットは大好きです。
職場に来る70代80代の方々は、私の知らない韓流スターの名前を次々と並べ、来日中の公演を日本全国あちこち追いかけて見てきた話をする。
なるほど元気の元なのだ。
私生活のブラッド・ピットに興味は無いけれど、たまには映画で会うことにしよう。
おかげで気分はよくなったけれど、あいかわらず歯は痛み、首もまわらないのである。
ついでに好みを言えば、ブラッド・ピットよりも、オダギリ・ジョーよりも、やはりジーナ・ローランズが一番だと思う。
この世界がすっかり あたたかい闇をまとい
誰もがみな 目を閉じ眠りに落ちると
わたしたちは螢のようにひかりはじめる
月は顔をかたむけ この世をながめる
わたしたちの光は寝息にあわせてゆっくり息づき
その時起きている月だけが
そのほのかな光を見ている
誰も起きてはいない
誰も知らない
けれどもわたしたちはみな 一緒にひかっている
+
なにかをつかんだまま眠る赤ん坊の握りこぶしがひかる
離れて暮らす恋人どうしのひたいがひかる
電車で寝過ごし 閉まった駅の外で眠る人のかかとがひかる
おなかに手をあてて眠る 病気の人のおへそのあたりがひかる
今日ハモニカを吹きながら歌った人のまぶたが涙のようにひかる
やわらかくてまるい小犬のしっぽがひかる
~~~・"~~~~~・゛~~~~~・"~~~~~・゛~~~~~・"~~~
そしてもう目を覚まさない人の最期の光は
ゆっくり やわらかい頬をなでてゆく
+
そうやってたくさんの光がまたたき
静かに飛び交う
わたしたちの夜
(『きおくだま』より「ほたる」部分)
昼休みのすいた時間に、職場近くの若い女性がやってきて話す。
彼女の壮絶な半生に耳を傾け、それでもくじけない彼女の真摯さについ涙ぐむ。
それで用事はというと、ここには書けないそういった事情から、身分証明が必要なタスポカードは作れないと言うので、タバコを一つ手売りする。
そういう事情を抱える人はわりと多い。
昨日はあんなことを書いてしまったけれど、新しいことというのは、人の都合におかまいなく、乱暴に多くの人を振り落としていく。
思いがけないことで、その人の影が映し出されたりする。
私は時々やってくる彼女のことが大好きで、心底しあわせになってほしいと思う。
「これからはきっといいことあるよ」などとも言ってしまうのだけど、彼女がこれからの人生を健康で暮らしていってほしいとほんとうに思う。
すると「タバコやめる?」ということになり、そうなると彼女のささやかな憩いの時間まで奪われることになり、……、うーんと顔を見合わせ、まずは減煙から始めるということで、1個手渡す。
身体に良いとか毒だとか、正しいとか間違っているとかで考えると、世の中はわりと単純だけど、現実の多くのことは煙ににじんでいたり、目にしみたりするのである。
それでタバコの売り上げは大幅に減り、こうやって話を聞くタバコ屋のおばちゃんも町のタバコ屋も消えていくかもしれない。
しょうがないよ、で片付けるには非情すぎる、生活や人生までをも変える厳しい変化である。
とても忙しい。とても疲れている。
タイトルを考える気力もなく、「茶花」のままである。
いつもなら月末に仕上げて帰る仕事を、3日も過ぎてどうにかようやく終えて帰ってきた。
月末月初が一番忙しい時期だというのに、のろのろと仕事している。
やる気が出ないせいばかりではなく、どうやらまた微熱が続いているようだ。
ただでさえだるくて仕事が片付かないのに、タスポである。
実は古いいきさつから、タバコの自動販売機を私の職場で管理している。
といっても、これまでは自動販売機が黙々と客の相手をしていた。
それが今月からタスポがないと買えないのである。
近所のおじちゃんおばちゃんはタスポカードなんてめんどくさいと言って、作っていないのである。
それでわたしが売っている。
次から次へとお客は来て、カードの説明をしたり、作りたくない理由やら不満を聞いたり、売ったりしている。
とても忙しい。(…)
仕事にならない。(泣)
タバコを喫いたい人はめんどくさいなんて言わずにカードを作ったほうが便利ですよ。
それが嫌ならいっそやめちゃったほうがいいのでは。
とついつい帰る人の背中に向かってつぶやいてしまう。
やれやれ。
モディリアーニは私にとって特別の画家です。
上京してすぐに、自分がほんとうに望む方向へ進路を変えたいと悩みましたが、それを選択することは許されませんでした。
若かったので「絶望」という言葉さえ胸にひそめて、たしか都内のデパートで開催されていた「佐伯祐三とブラマンク展」を観に行ったのでした。
その時、数枚展示してあったモディリアーニの絵がこちらを見つめていたのです。
やさしい青灰色の目。
実はその時まで、モディリアーニなんて大嫌いだったのです。
それが、目が合った途端に、モディリアーニは私が張りつめた気持ちでいることも、もろくくずれてしまいそうであることも、すべてを分かってくれていると感じ、ほっとして思わず泣いてしまったのでした。
あんなにかたくなに嫌っていたのに、モディリアーニのほうが先にゆるしてくれたのでした。
一瞬ですべてが分かり恋に落ちたというわけです。
以来、モディリアーニに恋しています。
* * *
自宅の冷蔵庫の扉には、昨年行った「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」と行けなかった「藤田嗣治展」のちらしが貼ってあります。
私はあまり混んでいるところに出かけないので観たものは少ないのですが、先日、国立新美術館で観たモディリアーニは特に美しく心地よく感じられました。
天井が高いので、照明がうまく計算されているのかもしれないなと思いました。
* * *
これももう終わってしまいましたが、「澁澤龍彦回顧展」
「回顧」とは、思い入れ深くまた寛い気持ちで、今生きている時点から眼差しを向けることなのだろうとあらためて思います。
今生きている人にも死んじゃった人にも、澁澤龍彦に関わった人すべてに対しての愛情と敬意を感じ、展示されたものそれぞれからも、同様のあたたかみを感じたのでした。
観た後は清々しい気持ちで風に吹かれました。
***それで、なぜか小声で言いますが、私は矢川澄子さんが大好きです!***
今日は父の日ですね。
昨日「明日届くようにプレゼントを送ったよ」と電話しました。
数日前に退院したばかりの父は「1ヶ月で5キロ痩せたよ」と話し、
「治療といっても食事療法くらいしかないらしい」と言って、
今カロリーブックを手にして勉強中だという母に替わりました。
「カロリーと単位っていうのがあって、計算がめんどうでできない」という母の呑気さに
父と私は笑い、母もまた笑い飛ばしたのでした。
父の笑い声、久しぶりに聞いたなあと思いながら、同じ話題を繰り返して
もう1回笑ってもらったりして……。
というわけで、心配は尽きませんが、声を聞いてちょっとひと安心。
*** *** ***
ちいさい頃はわりといい子だったんですけどね。
歳をとるほどに親不孝を重ね、だめな娘なんです。
と反省しつつ、去年の夏の写真です。
とうさん元気になってね。かあさんと仲良くね。
サカミさんが亡くなったと聞く。
ここしばらく自分の身の回りもあわただしかったけれど、ずっとサカミさんのことが気にかかっていた。
しばらく前に「また明日から入院だよ」とやってきたサカミさん。
今年になってから、入退院を何度も繰り返していた。
ふらふらの身体で自転車に乗って買い物に行き、自分ひとりの食事をちゃんと作っていたサカミさん。
ちっちゃくなったサカミさんが出ていくのを見送りながら、いとまごいのようだと、たぶんお互いに感じていた。
サカミさんの詩を書いたことは最期まで言えなかったのだけど、今ならきっと、サカミさんはここに書いた詩も読めますね。
サカミさん、ありがとう。
サカミさん
サカミさんが自転車のかごに花束を入れて通り過ぎた。
サカミさーん
と、ガラス戸越しに小さく手を振って見送った。
サカミさんはいつものように
ちょっと歯をくいしばるような顔をして
まっすぐ前を向いて行ってしまった。
いつもは仕事用の軽のバンでこの前を通る。
わたしに気づくと
にっと笑って、よっと手をあげ
仕事に出かける。
きょうは、自転車だった。
-
―――最近はみんな痩せたがるけどよ、なんでかな。
おれのかあちゃんなんて、ばあさんになっても
ぴちっぴちのぼいんぼいんだぜ。
サカミさんは自信満々うれしそうに話す。
―――はあ。ぴちっぴち……ですか。
―――おうよ、ぴちっぴちのぼいんぼいんだ。
いつもにこにこしたまる顔で
乾したてのふとんのようにふくふくとして
きっとひなたのにおいがする
サカミさんのおくさんを、
わたしたちは別々に思い浮かべて
なんだかしあわせな気持ちになり
あはは、うふふと笑った。
ぴちっぴちのぼいんぼいんの
サカミさんのおくさん、
サカミさん自慢のその人は
もう、いない。
七日前にお風呂場で倒れて逝ってしまった。
-
きのうサカミさんが
―――あわただしくって、あんまり寝てねえよ。
と言いながら、はじめてやってきた。
サカミさんのおくさんがもういないということに
これからずっといないということに
慣れていないわたしたちは
この世のどこかにあいてしまった大きな穴をふまないようにと
おそるおそる用心しあっていたが
やがてやっぱり
今でも温かいままのおくさんを思い浮かべながら
いないとかえらないの違いにも気づかないふりをして
話しつづけた。
―――俺がきれいにして送ってやったはずなのに
外出てるとよ
家で待ってるような気がしちまうんだよな。
とほんとうに不思議そうに話すサカミさん。
いつものように笑って話していたサカミさんだったが
―――これからはよ、
と言いかけると
ふいに、目のふちを赤くし
ことばが、とぎれた。
-
サカミさんの恋女房。
-
自転車のかごに入れた花束。
サカミさんが花を買うなんて
と考えて
ああ、そうだった
とようやく気づく。
サカミさんはこれまで
花を買うことなんてあったのだろうか。
-
サカミさーん。
-
(詩集『きおくだま』より)
*画家の矢野静明さんが、枯れ枝でつくったちいさなベッドの写真を送ってくれました。
*それを眺めていたら、詩ができました。
たましのベッド
これはベッドです
びょうきでしんだひとのたましがのっています
なんにもかなしいことなんてないんですよ
びょうきのときはくるしくてきゅうくつだったけれど
こんなにかざとおしのよいベッドにねているので
いまはたましもすこやかです
あんなにやんでいたはいも
ほら、こもれびがとおりぬけるくらいきれいでしょう
もともとまじめでかしこいたましだったので
なかなかやすむことができないのです
いまでもよわったかぞくのかおをのぞきこんだりするのです
でもいまはねています
とてもやすらかです
まだしんでいないひとも
こうしてたましがやすんでいるのをみると
あんしんするのです
∞----------------------------∞------------------------------∞
*この詩を、この5ヶ月間いのちの際でずっとがんばりつづけたあにと、
それをあきらめずに支えつづけた家族に捧げます。
*不思議なタイミングでベッドの写真を送ってくださった
矢野静明さんに感謝します。
+++
++
+
果てを写さないと、お花畑は延々とつづくように見えるけれども、
終りが見えた瞬間、その全体までも見えたような気がしてしまう。
限りが見えてあとどのくらいかと知っていたほうがよいのか、
限りを知らずに延々つづくと思っていたほうがよいのか。
でも結局、見えていてもいなくても、花の数は変わらないのだけれど。
+
++
+++
+
一日中ぼんやりとして過ごす。
人が途切れるとやりきれなかった。
GRをちょいと旅に出す。
思えば買ってから一度も離れたことがなかった。
一緒にいる時にもましていとおしい気持ちになる。
きっとそういうものなのだ。
できなくなるとしてあげたくなるものなのだ。
限りなく、あれもこれもできたような気がしてしまうものなのだ。
(いゝえ、露がおりればなほります
(宮澤賢治『春と修羅』から「真空溶媒」より)
+
+++どうかほんとうにそうでありますように+++
-------------------------------------------------------------------------
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
(宮澤賢治「眼にて言ふ」より)
(あめゆぢゆとてちてけんじや)
(宮澤賢治『春と修羅』から「永訣の朝」より)
+
+++ameyujutotetitekenja……ameyuju……+++
10年くらい前に、ファミリーレストランで夜9時からの深夜アルバイトをしていた。
食事をする場所では、様々なドラマが生まれる。
その日は母の日で混んでいた。
テラス席に、ほっそりとした美しいお母さんと娘さんが座っていた。
テーブルの上には、珍しい原色の花などを取り合わせた大きな花束が置いてあった。
私がそのテーブルでオーダーをとっていた時に、もうひとりのお嬢さんが遅れてやってきた。
3人ともよく似た美しい母娘だった。
息を切らしながらテーブルの上の花束をみて
「わあ、お姉ちゃんの花束大きい。私の小さくてごめんね。母の日ありがとう」
と赤いスプレーバラの花束を差し出した。
お母さんはうれしそうに受け取り、上のお嬢さんと花束をのぞきこんだ。
「私の小さいなあ」「そんなことないわよ、きれいねえ」
可憐なミニ薔薇の花束も、ボリュームのある華やかな花束も、姉妹の性格を表しているように思えてすてきだった。
お母さんはうれしそうだった。
それで、そのお母さんが感激するより先に、その場に居合わせそのやりとりを見ていた私のほうが、思わず泣き出してしまったのでした。
やれやれ。きっとその3人は訳も分からず困ったことでしょう。
そういうわけで、深夜のファミレスで私は何度も泣いた。
女性がまちあわせに遅れてしまい喧嘩になったカップルの席では、それとなく水の入ったグラスをテーブルの真ん中にくっつけておいたり、オーダーをとる時に二人で相談しなければ答えられないようなことを尋ねて、黙ったままの女性が口をひらくきっかけをつくったりした。
優秀で気の利く学生アルバイトが多かった中で、つかえないおばさんアルバイトだったけれど、お客さんには数々の失敗を大目にみてもらい、やさしくしてもらった。
つらかったけど、ドラマティックな夜のファミレスであった。
それで今夜はそのお店で、お客として食事をしてきたのでした。
白薔薇も咲きました。
この薔薇は、Mrs.Herbert Stevens。
細い枝にうつむいて咲きます。
私が手で支えているので、上を向いていますが。
香りもとてもよい薔薇です。
薄い花びらをひらいても、蕾の時の折り皺が残っていて、くしゃくしゃなところもかわいいです。
同じ写真ばかりと思うかもしれないけど、大好きな薔薇だから。
それで、しつこく、今日ひらいたFrancis Dubreuilも載せます。
休暇中は、お見舞いに出かけたほかは家にいたけど、その間、薔薇が咲いてくれてよかった。
そういえば、数年前の母の日に、いっせいに咲いた薔薇でアレンジメントを作ったことがありましたから、今年はすこし早いのかもしれません。
「きれいだね」と言ってもらえるのは、とても有り難いことだと、今年はとくにそう思います。
これはきのう活けた一番花。
花びらの色、深みを増しています。
二番花と三番花も咲きました。
今日は一日中プリンターと格闘。
思うように肌色が出なくて、何枚も何回も刷りました。
肌色と緑にいつも苦労するのですが、デジカメとモニターとプリンターとそれを見てる光線と…それらの色の組み合わせを考えたら色迷宮に迷い込んでしまったかのようです。ぐるぐる。
プリンターやっぱり買いかえないとだめかなあ…。
それでついにお手上げ。
ネットのデジカメプリントに出すことにしました。
えー、こんなに安いの?!なんだ、インク代と紙代に泣いてたのに…もっと早く気づくべきでした。
というわけで、自分では1枚もうまくプリントできなかったのですが、一仕事終えた気分。
それで昨日からつながって、ねこばなしなんですけど。
子どもの頃飼っていた猫は、ニッケという名前でした。
遊びに来た親戚の子に鋏で切られて、片耳は銀杏の葉みたいでした。
「なんでニッケという名前なの?」と幼い私が尋ねると、おばあちゃんは言いました。
「二毛猫だからニッケ、三毛猫ならミケ、白猫ならシロ、虎猫ならトラ」
「ええーっ。………」
そんな簡単な理由でつけた名前だったなんて…。
ではこの世の猫は、ニッケかミケかシロかトラか、せいぜいブチと呼ばれているのか…。
かなりショックを受けました。
ちなみに職場の近くの飼い猫は、ぽち子という名前です。
これは、去年の夏に撮った写真です。
霧雨の中、見つけたバス停の名前は、
にゃーん。