たとえば
長く留守にしていた懐かしい我が家へ帰ったとします。
生い茂る緑、背丈を伸ばした草。
扉をあけて家にはいると、床は一面まっくろになっています。
崩れ落ちた瓦屋根は、修繕ができないまま、雨漏りがしていました。
かつて団欒のあった居間にも仏間にも、雨はつたい滴りつづけたのでした。
すぐに帰るつもりで持ち出せなかった貴重品は、みな盗られていました。
庭は荒れ、野生化した豚など家畜たちが、はいりこんでいます。
置いていかねばならなかった猫や犬たちは、餌が尽きた後、どうしたでしょう。
町の大通りを、生き延びたペットたちがさまよっています。
町道のアスファルトを割り、雑草が車での通行を妨げています。
かつて丹精に手入れした田畑は、あっという間に雑草で覆い尽くされました。
広々とした田園風景で、黄色に波打っているのは、
一面のセイタカアワダチソウでした。
モグラが異常発生し、それに伴い、ネズミやタヌキ、
イノシシやキツネが増え、住宅地にまで入り込んでいるのでした。
畜産農家の飼育舎で、稲作農家の田畑で、住み慣れた家で、
凄惨な変わりようを目にしなければなりませんでした。
懐かしい風景は、いまや、自然の荒々しい姿に変わっていました。
原発事故後の警戒地域の人々は、受け容れがたいこのような現実と
向き合いながら、長く避難生活をつづけています。
◆
クレヨンハウスで、福島県の双葉地方原発反対同盟代表の
石丸小四郎さんのお話を聴きました。
40年以上も前から、ずっと原発反対運動をしてきた方です。
反対運動の原点は、
「お湯を沸かすだけなのに、なんでこんな危ないことをしなければならないのか」
訴えつづけてきたにもかかわらず、事故が起こり、
避難生活を強いられるという最悪の事態となりました。
事故後の混乱、情報が得られないまま騒然とした状態での避難、
その後に訪れた静寂。
放射能が降ってくるという恐怖。
その姿が見えないばかりか五感に感知されない放射能は、
青々とした茂みや土中にひそみ、悪辣です。
ある方が、外遊びを禁じられた子どもたちの息抜きにと、
数日間、海に連れていったそうです。
子どもたちは、黙々と砂遊びに熱中しつづけたとのこと。
成長期の子どもたちにとって、砂遊びは重要で必要なのではないかと
実感したそうです。
原発さえなければ、子どもたちは自然のなかをかけまわり、
なにも気にすることなく食べ物を口にし飲み水で喉を潤し、
家族は住み慣れた家で一緒に暮らし、土地に根ざした仕事を
つづけられたのでした。
馴染みの無い土地の狭い仮設住宅で、
疲れをためながら避難生活を強いられることもありませんでした。
野菜や米を育ててきた人が、牛や豚を飼ってきた人が、
家族と離ればなれになって子どもを育てていた若い母親が、
将来を悲観して自らの命を絶つこともありませんでした。
それにもかかわらず、原発再稼働への動き、
過酷事故を過小評価、風化させようとするかのような政策。
日本は世界の陸地の0.25%しかありませんが、
世界の地震の20%が日本で起きているそうです。
その日本で、原発をさらに稼働させようとする危険性。
「日本列島に住んでいる限り、原発の地元である」
という言葉をかみしめています。
講演後に、若い男性が、お子さんを放射能から守るために
お弁当を持たせるなどしてやってきたが、最近すこし
疲れてしまったと話されました。
放射能問題に対する不安や緊張は、終わりがありません。
40年間も原発反対運動をつづけてきた石丸さんの言葉です。
「後悔しないように、あらん限りの最大の努力をし、自分の思いに正直になろう」
また事故後の教訓として、次のことを挙げられました。
*ガソリンは満タンにしておく。
*最低限の水と食料を備えておく。
*貴重品の管理。
*次を予測しよう。
(どう連絡するか。どう逃げるか。どう助けるか)
石丸小四郎さんは、秋田県生まれで、石丸さんがおっしゃるには
「惚れた弱みで」奥様の実家がある福島に住むことになりました。
2000年に、愛妻であるその方を亡くされました。
原発の地元で反対運動をつづける石丸さんに「あなたはえらい」と
言ってくれたそうです。
石丸さんは、お墓が警戒区域にあるため、
奥様のお墓参りに行くことができません。